2008.02.16 Sat
命を想う
Mix のハチワレ三毛の女の子。
Cali を知っている人は、ラケルを見て、
「Cali に似ているね」と言います。
(あ、でも性格は違います。
ラケルの方が好奇心旺盛で活動的です。)

昨日出張から戻り、メールを確認すると、
Cali を看取った時の日記を読んだという方からのメールが一通在りました。
久しぶりに当時記した日記を読みました。
読んでいるとやはり、涙がこぼれます。
その後、猫ブログ巡りをしていて、
barai さんの友人が急逝されたことを
barai さんの日記で知りました。
亡くなられた方のことを私は直接は存じ上げず、
今回初めてその方のブログにおじゃましました。
愛情をいっぱい注がれた猫ちゃんと、
楽しく暖かなコメント。
その方がもうブログが更新されることはないと思うと
とても寂しく、残念です。
そんな思いを抱いた翌朝、
送られてきた印刷物の中に記されていた、
ある言葉が目にとまりました。
「このまま私が悲しんで過ごせば、
○○の死が悲しいだけの死になってしまうけれど、
この死に促されて私が生きることができれば、
その死が意味のある死になる。」
16歳の息子さんを脳腫瘍で亡くされたあるお母さんの
言葉でした。
(「○○」には、本当は息子さんの名前が記されています)
死と命は必ずしも対立する言葉ではない。
死は命を支える。
命は死を乗り越える力になる。
「死」を身近に意識したとき、
「命」も鮮やかに意識する。
誰かの死(人もペットも)は、親しい者達にとって、
悲しみではあるけど、
何かを教えてくれたり、
生き方を変えたり、
時に「生きる力」、「生きる希望」さえ与える。
誰かの死を「悲しいだけの死」にはしたくない、
わたしもそう思いました。
このお母さんは、息子さんが亡くなられた病院で
ボランティアを始められたそうです。
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| Rachel | 16:19 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑
お言葉、じっくりと読ませて頂きました。
私もようやく落ち着きを取り戻す事ができました。
「悲しいだけの死」にはしたくない、本当にそうですね。
| barai | 2008/02/17 11:17 | URL | ≫ EDIT